왕인박사유적지

4차 메뉴 정의

이근우, 2006, 〈왕인(王仁)은 천자문을 전했는가?〉, 《동북아시아문화학회 국제학술대회 발표자료집》, 동북아시아문화학회.

편저자 : 이근우   |   번역자 :   |   유형 : 기타( 논문 )   |   쪽수 : 19 (141-159)   |   총권수 : 권
이근우, 2006, 〈왕인(王仁)은 천자문을 전했는가?〉, 《동북아시아문화학회 국제학술대회 발표자료집》, 동북아시아문화학회. 이미지 1

王仁が日本列島に論語と千字文を?えたという話はよく知られている。しかし、このような?容は韓?の史書に記?されているのではなく、?は「日本書紀」と「古事記」という日本側の史料のみに記されている。ところで、「日本書紀」に王仁に?する記?があるからといって、それが疑問の余地のない?史的な事?であると言えるだろうか。王仁に?する記?がほかに確定されている事?と整合的な?係にあるか否かについて確認した上で、?史的事?として認めることができる。王仁に?する記?は次のようである。 『日本書紀』?神15年の秋の8月6日記事によると、百?王は阿直岐を遣わし、良馬二頭を奉った。それを?の坂上にある?で、阿直岐に掌らせて養わせた。その場所を?坂という。阿直岐はまた?書をよく?み、太子の?道稚?子の師とした。天皇は阿直岐に?し、「(阿直岐より)優秀な?者は他にもいるのか」と尋ねた。阿直岐は、「王仁という者がおり、この方は私より優れております」と述べた。そこで、上毛野君の先祖である荒田別と巫別を百?に遣わし、王仁を招いた。阿直岐は阿直岐史の始祖である。 同16年春の2月、王仁は招きに?じ、太子の?道稚?子の師となった。(太子は)??な典籍を王仁から?んだ。(王仁)は全ての書籍に通じていた。王仁は文首(ふみのおびと)などの始祖である。 これは著名な王仁に?する記事である。ところで、この記事に?しては、また異なる?承がある。まさに 「古事記」の記?である。「古事記」は「日本書紀」より8年前に完成された文?であり、日本王室の系譜と?話などを中心としてまとめられた本である。これもまた引用してみよう。 「古事記」 應神段 王仁について記された箇所「また、百濟國主の照古王(近肖古王)が雄馬一頭と雌馬一頭を阿直吉師に持たせて?上した。<この阿直吉師という人は阿直史などの始祖である。>また、百?王に?し、もし賢人がいれば?上するようにと命令が下り、和邇吉師という者を?上した。「論語」十?、「千字文」一?、?せて十一?をこの者に渡した。(この和邇吉師が文首などの始祖である)」 以上の二つの史料を比較すると、まず「古事記」では、阿直吉師を得た後に百?に?しもっと優秀な人物を捧げるようにとし、和邇吉師が得られたと?述されている。これに?して、「日本書紀」においては、阿直岐に聞いて王仁を知るようになったとされている。一番重要な相違は、「古事記」では、「論語」十?と「千字文」一?、あわせて十一?と明示されている点である。これに?して、「日本書紀」においては王仁が太子の師になり、?典に通じていることのみ記されており、「論語」と「千字文」については全く言及されていない。 さらに注目しなければならない点は、「論語」と「千字文」は王仁個人が?えたのではなく、百?王の意志が介在されているとも?める点である。阿直吉師の場合にも、百?が馬2頭を?上したように、「論語」と「千字文」を送ったのは百??、もしくは百?王であるという事?である。次に、「古事記」では阿直吉師や和邇吉師が太子の師になったという?容は?っていないという点である。その?容は「日本書紀」において新たに追加されたように見受けられる。 このように、二つの史料を具?的に比較すると、「古事記」と「日本書紀」の?容において、?際は少なからず異なる点が確認できるが、このような相違点をいかに理解すべきかが問題になる。まず、史料の成立年代を見ると、「古事記」は712年、「日本書紀」は720年である。そして、「古事記」は?時日本王室の舍人だった稗田阿?の暗誦を基にしたものであり、文?においても日本語と漢文の混用とも言える。一方、「日本書紀」はそれより多少?れて成立し、純漢文?として中?系の人物が最終的な過程において深く介入したのではないかという主張が最近提起された。 特に、韓?において王仁の功績について語る時、「論語」と「千字文」を?えたことと太子の師となったことが?げられるが、それは「古事記」と「日本書紀」の?容を無批判に受け入れ?合しただけで、二つの?承が必ずしも事?であるとすることはできない。また、史料の批判においては、?純に?合するだけではなく、特に相互に食い違う?容を?える史料があれば、どちらがより信憑性が高いか、又は齟齬が生じた?容をなぜ?えたのかについて確認することが先であろう。お互い食い違う?容を有するにも拘らず、?方を無?件的に受け入れ?合して王仁の事積として認めるのは、疑問から出?する史料批判の基本を無視するような態度である。 王仁に?連して問題となる「千字文」について、詳しく見てみたい。中?の史書の中では??な「千字文」を見出すことが出?る。しかし、?代まで代表的なものとしては、周興嗣の「千字文」と蕭子範の「千字文」が?げられる。 もし最初の「千字文」であることと、それが現在まで?われているという事?を認めることができれば、王仁が??した「千字文」も南朝の梁武帝(502?549年在位)のときに作られた周興嗣の「千字文」であると考えるしかない。ところで、周興嗣の生存年代(470?521)を考えると、「千字文」の編纂は521年の以前に行われただろう。 ところで、「日本書紀」において王仁が千字文を??したと言われる4世紀末から5世紀初頭と、「千字文」が作られた時期との間には、?に100年以上の隔たりがあり、王仁はまだ作られてもいない「千字文」を日本に??したことになる。 一方、王仁は「論語」十?も?えたと言われる。「論語」十?は現在?わる「論語」の??より多いため、これは「論語」の本文のみならず、注?を含む?容であることが分かる。そのような注?書のうち、著名なのは何晏(?193?249)の「論語集解」と皇侃(488?545)の「論語義疏」などがあげられる。 「論語義疏」は、 魏の時代の何晏が書いた注?書である「論語集解」に、また南朝の梁の皇侃が疏を付した注?書である。これは、南宋の時代、中?では失われたものの、ある時期に日本に??された抄本が?の時代に中?へ逆流入され、「論語」の?究において貴重な資料である。また、宋の時代、邢昺が王命を受けて書いた「論語 註疏」において重要な?考書になったと評?されている。 このように、「論語」テキストとその注?においては、鄭玄の論語テキスト、これを基にした何晏の「論語集解」、また「論語集解」を基にした中?梁の?者の皇侃の「論語義疏」、そしてまたこれを基にした「論語註疏」で、その流れをまとめることができる。日本に何晏の「論語集解」、皇侃の「論語義疏」が?われた点を重視すると、王仁が?えたと見做すことができる「論語」の注?史料は「論語集解」と「論語義疏」が有力である。ところで、何晏の「論語集解」は、日本側の史料で示される王仁の活動時期から考えても、?に100年以前に作られた注?書だったため、王仁が??したことが特別な意味を持ち難い?況であった。 これに?して、皇侃の「論語義疏」は何晏の「論語集解」をさらに補?したものであり、編纂直後から?く普及されたと記?されている。そして、その完成時期が周興嗣の「千字文」が編纂された時期に近接している点に注目したい。梁武帝が統治した期間は、南北朝の混?な?況の中でも異彩を放つ時期である。昭明太子の「文選」、周興嗣の「千字文」、皇侃の「論語義疏」など、後代まで?く?まれている文?が多?編纂された。梁武帝自らが各種の典籍に?く通じており、臣下の?問的な疑問に答えられる程の?識を備えた君主だった。 このような時期に作られた二つの文?が編纂されてからすぐに、中?の新しい文化的な成果として、王仁により一?に??されたと見なした方が、王仁が「論語」と「千字文」を??したという記述の意味を積極的に解?することになる。結局、皇侃の「論語義疏」と周興嗣の「千字文」は、日本に??される直前に中?にて編纂されており、編纂された直後にすぐ日本列島へもたらされたとすると、王仁が果たした役割が極大化される。偶然にも二つの文?は、?方とも梁武帝のとき、?ち6世紀の前半に完成されたものである。 そうだとすると、「千字文」一?と「論語」十?を??した王仁博士は、決して4世紀末、もしくは5世紀初の人物ではなく、6世紀前半に活動したと見なければならない。「古事記」の記?のように、王仁が「論語」と「千字文」を??したことは事?ではあるものの、王仁の子孫が自分たちの祖先が早くから活躍したことを主張するために、王仁の活動時期を100年以上早めたということだろう。ところで、「日本書紀」の編纂段階において、「千字文」に詳しい中?人たちが??するようになってから、王仁が「千字文」を??したという?容に異議を唱え、「日本書紀」の段階においては王仁の活動年代はそのままとする代わり、むしろ?史的事?とも言える論語と千字文を??したとの?容を削除し、ただ?典に通じていた事?を記?したと思われる。

의견쓰기

0 개의 의견이 있습니다.

의견저장